五郎は東京工業学校(現東京工業大学)の応用学科で発酵学、醸造学を勉強し卒業後も埼玉県で醸造技師を務める傍ら、醸造用水加工や酵母の培養についての研究を
続け、その集大成として明治27年、酒造りについての専門書「醸海拾玉(じょうかいしゅうぎょく)」を発刊しました。
この「醸海拾玉」は当時、杜氏の勘に頼っていた酒造りを化学的見地から説いた酒造り教本で、特に醸造用水の加工研究は、軟水による酒造りをいち早く可能にし、又「酒母への乳酸添加応用」は野生酵母を排除、適正酵母の純粋培養に成功し、当時恐れられていた腐造を防ぐことを可能にしたことで醸造業界に大きな旋風を巻き起こしました。この技術は後に江田鎌次郎氏により「速醸もと(そくじょうもと)」として、体系付けられました。
このような功績により、創業者岸五郎は、醸造協会主催第1回全国清酒品評会の主任審査員及び主任評議委員を務め、昭和16年には醸友会全国醸造技術功労者第1号を頂き、昭和33年には醸造界初の黄綬褒章を受賞しました。
「醸造は、一つの活劇場なり、
その千変万化、究極とするところなかるべし」
お福酒造では、淡麗辛口の時代にあって、旨みの乗った豊潤な味を貫くことが基本であり、飲むほどに幸福感の味わえる酒、存在感のある酒の味わいを追求してきました。「米をたっぷり使用し、
あえて旨みののる味わいを貫く」
醸造法としては、コスト度外視の酒造法ではありますが、濾過を最小限にし、蔵癖を出し、個性のある酒造りを目指しているからこそ、お福酒造では一貫して、「速醸もと」を使用しています。
関 五郎松 著と書かれた古い書籍「醸海拾玉(じょうかいしゅうぎょく)」と題されたその本が出版されたのは、何と明治27年(1894)。五郎が、弱冠26歳の時なのです。
当時の大蔵省技術者はお福酒造を訪れ、乳酸実験に皆驚いたようです。
里山保全に協力したいという思いから、また地域性や独自性を生かした酒造りをすることが、地域を活性化できると考え、山古志村との取り組みがはじまりました。
2004年10月24日 新潟県中越大震災により、お福酒造醸造蔵、精米工場倒壊とともに、山古志の棚田も壊滅し、翌年2月まで醸造は不可能となりましたが、長岡復興の強い願い、さまざまな方たちの協力により、2007年2月に山古志酒米生産者協議会を発足するまでに至り、
2007年12月には、念願の酒蔵が復興し、その象徴として、清酒「山古志」を醸造することができました。